1999年4月1日公開

2024年4月15日更新

    
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11月のご案内

  「自分のことは自分が一番よく知っている」という表現は、私を含めてほとんど人が言い、納得しています。しかし、哲学的・宗教的には自分を知ることが、一大テーマです。道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」 道元『正法眼蔵(しょうほうげんそう)』 「現成公案(げんじょうこうあん)」『正法眼蔵1』(岩波文庫)54頁
 道元禅師は先に引用した言葉の後半に、「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と述べています。ここでいう「自己をわするる」とは、決して自分を喪失することではありません。欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、そのような自分から解放されることをいうのです。それは真の自己の回復を意味します。そして、そのような真の自己が回復されたとき、迷ってきたこの自分は、実は光輝く世界のなかに生きていたことに気付くのです。
 東本願寺系のお寺、紫雲寺の住職、伴戸昇空師が人間の意識構造を仏教の唯識で示されたものを次のように図示されています。

 此岸(我々にとって世間)は我々に見えたり認識できる世界です。彼岸は仏の目覚めの世界です。海に浮かぶように見える二つの島(左の島が私、右の島があなたです)を想定してください。自我意識は眼・鼻・耳・舌・身の五つの感覚での認識と意識(心、第6識)、それに少し浅い反省するする深層意識(第7識より浅い、心で内省する範囲)を私と考えます。
 釈尊の目覚め・悟りから分かってきた意識の構造を、先輩方の深い洞察の積み重ねによって、深層意識(第7識:末那識、第8識:阿頼耶識)としての意識構造を龍樹・世親菩薩は把握されました。
 阿頼耶識は蔵識とも言われ、経験など情報が蓄えられ、そこから思考・行動や発言が出ていくのです。それらの内容の蔵識からの出入りには第7識の煩悩でしっかりと染まっていくのです。
 人間存在を自我意識のとらえた私だと多くの人が思っていたのを、釈尊の目覚め・悟りで、自我意識(理性・知性)で分からなかった深層意識(無限に広く深く、関連性がある)を含めて人間存在の在り様の受けとめに(理解)に革新的展開をもたらしたのです(無量光に照らされて人間としての本来性への受けとめの深まり)。
 「自己とは何か」、「人間とは」、「汝自身を知れ」「本当の私」など哲学的・宗教的課題に示唆を与えることになったのです。
 仏教は、自我意識だけだと、人間の心の状態は「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界」の六道を、迷いの連鎖で死ぬまで繰り返すしかない(六道輪廻)、と気づいたのです。そして相手(親しい人でさえ)を3人称的(he, she, it)にとらえて通じ合おうと努力するもかなわないのです。
 二つの島を上空から見たらどうでしょうか。見える部分は別々の島(私とあなた、彼・彼女)でしょうが海の底では繋がっているのです、そして私もあなたも、彼・彼女も、孤立して存在するのではなく、共に地球等(無量の因や縁、その他もろもろ)に支えられ、お互いに関連性をもって生かされて存在する遇縁存在なのです(縁次第ではいかなる振る舞いもすべし)。それは海上の見える部分では認識できないが、表面的には見えない無量(空間的・時間的など)の因や縁によって生かされ・支えられて、意識構造を共有する人間・仲間として存在しているのです。
 経済学者の今村仁司(1942-2007、社会哲学者)は平野修師を通して浄土真宗に出遇い、普遍的宗教が教えるのは「存在の満足」の世界だと言っています。無い物を追い求めて得る満足ではなく、すでに与えられてあるものへの気づき、目覚めです。歴史上、釈尊の悟り・目覚めで、迷い(六道輪廻)を超えた世界(仏になる道)への気づきが普遍的な宗教としての仏道です。釈尊の目覚めの第一声が「不死の法を得たり」と伝えられています、生老病死の四苦を超える道でもあるのです。
 図でいうと島の深部(基礎部分の涅槃・浄土)から海上に浮かぶ島のように見える表面の自我意識の存在へ、浄土から「目覚め、覚り」の法が立ち上がって、如より来生し「南無阿弥陀仏」として「汝、小さな自我意識の殻を出て、大きな仏の世界(目覚め・悟り)を生きよ」と呼び掛け、呼び覚まし、喚び戻そうとはたらいているのです。
 法蔵菩薩が人間に、目覚め・気づきへの展開を長い時間をかけて働きかけ努力してきたが、もう人間の能力に目覚めを期待することは諦めました(真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めない)、私があなたの中に身を捨てて、南無阿弥陀仏と成って(方便法身)、無量光・無量寿を届けましょう、とされたのです。
 法蔵館出版の仏教学辞典には「行信(ぎょう-しん)」について、「一般仏教では心行というのにあたる。普通には、「行」とはさとりに至るための実践、「信」とは信心を意味するが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、固有の解釈をする。
 即ち、行をさとりにおもむかせるものという意に解して、衆生をして信じさせ称えさせる根源となっている如来の救済力の具体的な現れとしての名号のことを「行」、その名号のはたらきによって起こされた信心のことを「信」といい、その信心にもよおされて衆生が称える念仏のことも「行」という。
 この行・信はいずれも如来のはたらきであるから大行・大信といい、衆生にとっては信がさとりに至る唯一の原因であるとする。」と出ています。


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