1999年4月1日公開

2023年11月19日更新

    
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  総願(四弘誓願ともいう)は一切の菩薩が発すべき四種の誓願のことで、すべての仏・菩薩に通じていることから総願という。
 別願とは仏・菩薩がそれぞれ独自の立場に立って発す誓願のことで、阿弥陀仏の四十八願、釈尊の五百の大願、薬師仏の十二の上願、普賢菩薩の十大願などが知られています。阿弥陀仏の本願以外は全て、衆生が精進・修行をして菩薩、仏を目指す方向性(向上性、成仏)の誓いです。
 四弘誓願(しぐせいがん)文は、仏道を求める者が修行する時の四つの誓いの言葉で、全ての宗派に共通のもので、修行をする者は、この四つの言葉を常に心がけるよう求められます。
衆生無辺誓願度 (しゅじょう・むへん・せいがんど)〜生きとし生けるものは限りなくありますが、救っていくことを誓います。〜
煩悩無尽誓願断 (ぼんのう・むじん・せいがんだん)〜欲や悩みなど、煩悩は尽きることはありませんが、断ち切ることを誓います。〜
法門無量誓願学 (ほうもん・むりょう・せいがんがく)〜お釈迦さまの教えは数限りなくありますが、学んでいくことを誓います。〜
仏道無上誓願成 (ぶつどう・むじょう・せいがんじょう)〜さとりへの道はこの上もないものですが、成し遂げることを誓います。〜
 自分のため。人のため。
 修行というと、技を磨いたり、精神を鍛えたりすることを思い浮かべます。
 では、何のために修行をするのでしょうか? 多くは自分のため、自分の能力を高めるためだと思います。しかし、仏教ではもう一歩進めて、自分が修行して得たことを、人のために活かそうと考えます。人のために何かをしようと思うことは、人のためにすることが自分のためにもなるという教えです。四弘誓願文を含めて、仏教の多くは、自分の心身を治めて、品行方正な立派な人格者、仏、目覚めた存在になることを志向しています。
 ところが中国の曇鸞、善導、日本の源信(往生要集の著者)、法然(選択本願念仏集の著者)、親鸞(教行信証の著者)の浄土教の流れは、自分が立派になるのではなく、愚かで、煩悩まみれの凡夫が救われる阿弥陀仏の教え、釈尊を仏たらしめた「法」、仏の智慧をいただく道なのです。世俗の生活者、欲まみれの者にはこの方向性の仏教しか救いの道はないのです。よくも釈尊は戦いごとや戦争を繰り返す末法の世(濁世)で人間の救われ道を説いてくれていたことの有ること難しです。
 阿弥陀仏の四十八願だけが阿弥陀仏から衆生に向けられた、生老病死の四苦を超える教え、道です(向下、迷える凡夫に仏の智慧と寿を届けて救うという,仏から衆生に向けられた誓願です)。
 浄土真宗の学びで分かりにくいのが「本願」という言葉です。大経の中で法蔵菩薩が衆生済度のために48の本願(弥陀の本願ともいう)を説かれたのです。その中で根本の誓願が第18願(仏が真心をもって私に呼びかけ、呼び覚まし。仏の世界へ喚び戻す本願)です。それは衆生(私)の奥底の本来の願いに通じていると思われます。根「本」、「本」来の「願」いを「本願」と表現しています。
(以下は出典不明、メモとして記録していたものです。一部田畑改変):
 本願は法蔵菩薩の建てられた願いですが、法蔵の願いは究極として言えば衆生の願いに他なりません。衆生(凡夫)の願いは一見すると無明・我執にまみれた欲望に過ぎませんが、その深遠を尋ねていけば「本当はこうしたかったのだ」という思い当たりや納得できる思いを引き起こされるでしょう。平生は「あれもこれも欲しい」と迷っている衆生も、いざとなって命がけの選択を迫られれば、「そうだ、これだ!」と純粋な本心一途の願いが出てくるでしょう
 これが仏と衆生が一体(仏が迷える衆生に影の如く寄り添って)となった願いです。こうした内容の願いでなければ「心の奥底からの満足」とはならないでしょう。
 しかし、これは無い物ねだりの「欲」と違い、「本来的にそうで「ある」ことが本当にそう「成る」」という「願」です。「人間だから本当の人間に成りたい」、「親だから本当の親に成りたい」、「和合するのが本来の世間なのだから平和を実現させたい」、こう願い続けることそのものが成就であり満足なのです。願いは事実として成就することは永遠に適わないかもしれませんが、存在そのものに根ざした内容ですから常に満足が伴います。願い続けることがそのまま成就なのです。逆に「私は既に立派な人間である」とか「私は立派な親になった」などと「事実として成就した」と思い上がる驕慢な態度が願いを破壊するのです。つまり「願いの中にこそ成就あり」で、これが無い物ねだりの「欲」との大きな違いです。この本来的に宿されていた衆生の深い胸の内を仏の教えの智慧によって聞き開き、言葉によって明らかにしたものが四十八願です。
 智慧がないばかりに煩悩的欲望や頑迷な思想に捻じ曲がっていたものを、本来から洗いなおして社会的・創造的に生きる人間像を明らかにしたのです。そしてこの本願が我が身に至り、私の願いとなって働くことを回向というのです。願いは衆生の本心でありながら、あくまで如来が先手で働きますから他力というのです。(引用終わり)
 羽田信生師は「仏教は普段の欲の願いの奥にある本当の願いに目覚めることを教えているのです。表面的な欲の願いの満足だけでは、人間は本当には満足できないのです。なぜなら、それが私たちの本当の願いではないからです。ですから私たちは釈尊の「お前の本当の願いはこれなのだ」という声を聞いて、『ああ、そういうものが私の中にあったのか』と分かってくるのです。」と言われています。
 本願は我々に、一つは「教え」として示される。もう一つは私の心の奥底からの「いのち」の叫びというか仏の働きかけに呼応として感得して受け取れるものでしょう。
 法蔵菩薩は救われ難い私の迷いの相(すがた)に気づき、その救われ難い衆生の「有り様」に、菩薩は衆生済度の思索を修行として続けながらも…、煩悩を秘めた我々の分別思考の有り様を見極め、「もう人間に覚りというようなことは期待しません、諦めました。私がその苦悩する人の中に南無阿弥陀仏となって身を捨てましょう、そして信心になりましょう」と働いておられたのです。
 その働きに縁あって触れるとき、私一人のためにご苦労されていたのかと自然と頭が下がるのです。ネパールやブータンの仏教徒がされる五体投地の礼拝はその心を示されているのでしょう。


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